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プラトンは紀元前427年、アテナイ最後の王

コドロス(Codrus)の血を引く貴族の息子として、アテナイに生まれた[1]。

祖父の名前にちなみ「アリストクレス」と名付けられたが、体格が立派で肩幅が広かった(古希: πλατύς)ためレスリングの師匠であるアルゴスのアリストンにプラトンと呼ばれ、以降そのあだ名が定着した。

若い頃は政治家を志していたが、やがて政治に幻滅を覚え、ソクラテスの門人として哲学と対話術を学んだ。紀元前399年、アテナイの民主派によってソクラテスは、「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、死刑を宣告され、毒杯を仰いで刑死する(この裁判の情景を描いたのが『ソクラテスの弁明』)。

この後プラトンはアテナイを離れイタリア、シチリア島(1回目のシチリア行き)、エジプトを遍歴した。このときイタリアで、ピュタゴラス派およびエレア派と交流を持ったと考えられている。

紀元前387年、アテナイ郊外に学園アカデメイアを設立した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学などが教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。弟子にあたるアリストテレスは17歳のときにアカデメイアに入門し、そこで20年間学生として、その後は教師として在籍した。

紀元前367年、友人ディオンらの懇願を受け生涯に2回目となるシチリア島のシュラクサイへ旅行した。シュラクサイの若き僭主、ディオニュシオス2世を指導して哲人政治(大対話篇『国家』に示される)の実現をめざしたが着いた時にはディオンは追放されており不首尾に終わる。

紀元前361年、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目のシュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ今度はプラトン自身、軟禁されてしまう。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス学派の政治家アルキュタスの助力を得てなんとかアテナイに帰ることが出来た。哲人政治の夢は、紀元前353年にディオンが政争により暗殺されることによって途絶える。

晩年のプラトンは著作とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年(紀元前348年ともいわれる)、80歳で死亡した。
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一般にプラトンの哲学はイデア論を中心にして展開されるといわれる。生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であるとした。不完全である人間の感覚ではイデアをとらえることができず、理性によってのみとらえることができるとした。また、イデアの認識は、いわば忘却されていたものの想起 anamnêsis であって、その想起からはかつて属していたイデアの世界を憧れ求めるところのエロス erôs が生じるとした。

このためプラトンは、経験主義のように人間の感覚や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができないためである。また、プラトンは芸術についても否定的な態度をとった。視覚でとらえることができる美は不完全なものであり、芸術はイデアの模倣に過ぎない現実の事物をさらに模倣するもの、さらには事物の模倣に過ぎないものに人の関心を向けさせるものとして、価値を見出さなかった。

ただし、プラトンの著作の中でイデア論が明確に展開されるのは、中期の一連の対話編に限られる。晩年のプラトンがイデア論をなお維持していたかについては、「エイドス」(形)などのイデアの類義語をただちにイデア論と結びつけることが可能かどうか、「ある」(存在)の把握の差異などをめぐり、研究者の間で見解が分かれる。

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2009年05月29日 11:54に投稿されたエントリーのページです。

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